2011年3月5日土曜日

アメリカ連邦最高裁判例紹介-Snyder v. Phelps

今月2日、アメリカ連邦最高裁は、以前ブログで取り上げたSnyder v. Phelpsの判決を下した(この判決の事実、下級審の判断については以前のブログ記事参照)。判決は81で、教会のピケッティング等が言論の自由により保護され、不法行為が成立しないとする連邦控訴裁判所の判決を維持し、Snyderの上訴を棄却した。法廷意見はロバーツ長官、反対意見はアリート裁判官によるものである。またブライヤー裁判官の同意意見(内容的には法廷意見の趣旨を補足するものであり、日本でいう「補足意見」にあたるものだった)が付されている。

以前の記事で書いたように、この事件では主として「意図的な感情的苦痛の賦課」という類型の不法行為の成否が争われた。この不法行為はいわば侮辱の中のより強烈なものに法的責任を認めるものであり、言論によっても成立することが判例上確立している。

ただ、この不法行為の成立範囲についてはなお不明確な点があった。すなわち、Hustler Magazine v. Falwellという連邦最高裁判決において、少なくとも公的人物に対する言論の場合には、この不法行為の成立が著しく限られることが明らかにされていたが、言論が内容において公的だが通常の私人に向けられているという場合、この不法行為の成立範囲は明確でなかった。

まさにこの点が、Snyder v. Phelpsの主要論点となった。ロバーツ執筆の法廷意見は非常に簡潔であり、かつ本件事実に即した「狭い(narrow)」ものである(ブライヤーによる同意意見は本判決が狭いという点をさらに強調するために付された)。しかし、法廷意見の中心部分であるⅡの前半部(pp. 58;頁番号はリンクのPDFファイルのもの)で一般法理を述べており、先例としてかなり重要となりそうである。

意図的な感情的苦痛の賦課と、それと密接に関連する名誉毀損のアメリカ連邦最高裁判例には、私人/公的人物・公職者、私的関心事/公的関心事という2種の区分が混在してきた。

前者は、言論の標的が通常の私人なのか、公的人物・公職者なのかという区別であり、開かれた討論の必要性からは、当然、政治家への批判のような公的人物・公職者に対する言論は手厚く保障されないといけない。後者の区分は、言論の内容がプライバシー情報のような私的なものにすぎないか、政治的、社会的議論の対象になりうるような公的なものかを区分するものであり、当然、公的関心事についての議論のほうが強く保護される。

名誉毀損法理、及びそれを応用した意図的な感情的苦痛の賦課に関する法理(Hustler判決は名誉毀損判例を引用し、それを意図的な感情的苦痛の賦課の不法行為に用いる論証を行っていた)の中心は、私人/公的人物・公職者の区分であったように思われる。

この区分を本件にあてはめると、本件言論の標的となったSnyderは私人であるから、言論の自由の保障は薄くなりそうである。しかし、法廷意見は、私人/公的人物・公職者の区分ではなく、私的関心事/公的関心事の区分を中心に据え、本件で問題となった言論を公的関心事に関わるものであったとして、言論の自由の保障が及ぶとした。

この点は大変重要である。最高裁は、少なくとも意図的な感情的苦痛の賦課に関する法理に関しては(そしておそらく名誉毀損等のそれ以外の領域でも)、言論の標的だけではなく、言論の内容をも重視するアプローチをとることを宣言したのである。そして、そのために、法廷意見は公的内容の言論を重視する趣旨を述べた過去の判例を総動員し、整序している。

また、私的関心事/公的関心事の区分は、具体的な事例では難しい場合も多いだろう。多くの事例で、私的な内容と公的な内容が混在していることが十分に起こりうるからである。この点についても最高裁は重要な判断を行っている。最高裁は、この区分については、事件の全状況に照らして判断されるとし、問題の言論の内容、形態、文脈を検討する必要があるとしている。また、この区分をするための3つの指導原理(法廷意見によれば、①共同体にとって、政治的、社会的その他の関心事に関わると考えられるか、②正当な報道利益がある主題を扱っているかが検討される。そして、③当該言明が不適切であったり、論争的であったりすることはこの区分に無関係である。)を、5つの最高裁判例から引き出している。

法廷意見は、このような法理を確認したうえで、本件の具体的事実へのあてはめをおこなっている。

要点は、第1に、本件言論の内容(「神は合衆国を憎んでいる("God Hates the USA")」、「アメリカの運は尽きた("America is doomed")」、「 ローマ法王は地獄行きだ("Pope in hell")」、「同性愛者だらけの軍隊 ("Fag troops.")」、「地獄に落ちろ( "You’re going to hell")」、「神はお前を憎んでいる( "God hates you")」等)が、全体として公的問題に関わるということである。最高裁は、このことは場所が葬儀場であったとしても変わりはないとした。

2に、ピケッティングは「伝統的パブリック・フォーラム」である公道に隣接する場で行われ、かつ警察の指示に従い、秩序を保ってなされていたということである(しかもSnyderの葬儀の場からは1000フィート〔約300メートル〕離れていた)。

3に、本件規制が内容、見解の規制になっているということである。法廷意見は、本件の言論は、時、方法、場所に関する規制(内容中立的規制)には服するとしたが、この事件ではそのような規制が問題とされたのではなく、被上訴人教会の発言内容のもたらす苦痛が問題になったというのである。また、意図的な感情的苦痛の賦課は「常軌を逸した(outrageous)」場合に成立するとされているが、本件のような場合には、陪審が恣意的判断をする危険性が高いとした。

これに対して、アリートの反対意見は法廷意見に全面的に反対するものとなっている。アリートは、被上訴人の教会はいくらでも表現手段があったのに、メディアの注目を得るためにあえて戦略的に葬儀の場を選んだことを強調している。また、本件メッセージが公的なものではなく、Snyder個人に関わるものであり、むしろ私的なものであるとしている。そして、教会の言論が公的なものを含んでいてもただちに強い保護が与えられるわけではないとし、公的場所でなされたからといって免責されるわけではないとした。また、教会がSnyderに個人的な恨みを持っていなかったことは無関係であるとした。さらにアリートは、内容中立的規制と感情的苦痛の賦課の不法行為は全くの別問題であり、本件のような事例では内容中立的規制の存否に関わらずこの不法行為が成立するとした。

現時点で詳細な分析ができるわけではないが、一見したところ、法廷意見がきわめて妥当ではないだろうか。言論の対象の区分だけではなく内容の区分を重視する一般法理、その具体的な事実へのあてはめいずれについても説得力がある(他方、反対意見は言論内容の区分等に関してかなり判断が荒いように思われる)。以前のブログ記事で書いたように、本件の下級審はHustler判決に引きずられて事実/意見の区分という、本来意図的な感情的苦痛の賦課の不法行為とは無関係なはずの論点にこだわっていたが、ロバーツの法廷意見はそのような混乱を明確に回避している。

ただ、法廷意見と同意意見が強調するように、本判決は具体的事実に即した狭いものであり、教会の言論が常に免責されるとは限らないと思われる。たとえば、私的な内容と公的な内容が混在している場合で、むしろ私的な内容(たとえば個人への誹謗中傷)が大きな部分を占めている場合には判断が異なっていた可能性が十分にある。

この点に関して重要と思われるのは、最高裁法廷意見の判断の対象となった事実である。下級審では、教会のピケッティングとともに、教会のサイトに掲載された叙事詩(epic)も問題にされていた。ピケッティングで掲げられたメッセージには、どちらかというとSnyderへのあからさまな個人攻撃にみえるものは少なかったが、叙事詩のほうはSnyderの個人名を挙げる等、まさにSnyder個人に向けられていた。法廷意見は、Snyder側が上告趣意書において叙事詩に言及しなかったため、この点を判断の対象から外した。もし叙事詩が対象に含まれていたら結論に違いが生じていたかもしれない(反対意見は叙事詩も判断対象に含まれるとしていた)。

なお、今回の判決、及び前回の開廷期のUS v. Stevens判決(動物への残虐行為を描写したものを処罰対象とする規定が、言論の自由を侵害し違憲とされた事例)から、保守派のロバーツが反道徳的な言論、あるいは有害言論に一定の理解を示す一方、同じく保守派のアリートがその種の言論に低い程度の保護しか与えないという点も明らかになったといえるだろう。