2010年11月1日月曜日

ローレンス・トライブ教授の手紙

数日前、アメリカの最も有名な憲法学者である、ハーバード大学教授(現在オバマ政権の下で、司法省の貧困者の法的サービスへのアクセス向上に関する部門を指揮する顧問となっている)ローレンス・トライブのオバマ大統領への手紙全文がリークされ、公開されたことが多くのメディアで報じられた(参照)。トライブはこの手紙が本物であることを認めている。この手紙の日付は2009年5月4日。その3日前の1日、リベラル派の連邦最高裁裁判官、デヴィッド・スータが辞職を発表していた。この手紙は、その後任として、当時ハーバード大学ロー・スクールの長であり後に最高裁裁判官となったエレナ・ケーガンを指名することを強く薦めるという内容だった。

トライブはハーバード・ロースクール在籍中のオバマ大統領の指導教員であり、オバマをリサーチ・アシスタントに雇い、その能力を高く評価していたといわれている。現在政権に入っていることからも明らかなように、オバマとの親交は深い。

トライブといえば何よりアメリカ憲法の概説書で有名で、これは20世紀後半で最も頻繁に引用された法学テキストだともいわれる。政治的にはリベラル派として有名で、80年代に保守派のロバート・ボークが最高裁裁判官指名を上院で拒否されたとき、反対運動の先頭に立ち保守派からの怒りをかった。また、大統領選挙の最終的結果が最高裁にまで持ち込まれて話題になった2000年のブッシュ対ゴア事件では、ゴア側の代理人を勤めたことでも有名である(彼の副業の弁護士としての収入は、なんと年間100万~300万ドルであったともいわれている)。

この手紙が書かれた当時、最高裁裁判官9名のうち、保守派が5名、リベラル派が4名いて、保守のうちケネディ裁判官が中道寄りであり、場合によってはリベラル派陣営の意見に加わるスイング・ボートとして知られていた(このイデオロギー分布は今も変わらない)。オバマが大統領になってから、リベラル派の2名(デヴィッド・スータ、ジョン・ポール・スティーブンス)が相次いで辞職し、新たにリベラル派の2名(ソニア・ソートマイヨール、エレナ・ケーガン)が指名されることになった。トライブはその手紙の中で、スータの辞職表明にあたってケーガンを強く推したのだが、オバマは最終的にその意見を容れず、ソートマイヨールを指名し、その次の機会にケーガンを指名するに至った。

そもそもリベラル派の学者が、自分の大学の同僚であるリベラル派のケーガンを、親交の深いかつての教え子オバマに推薦するというのは全く普通のことであり、手紙の内容も確かに普通のものだった。しかし話題になっているのは手紙の全体的なトーンである。候補者として名前が挙がっていたソートマイヨールについて、彼女は「自分が思っているほどスマートではない(she's not nearly as smart as she seems to think she is)」と述べ、最高裁裁判官としての適格を欠くといっているのである。また、ケーガンが規律、原理に基づいた場当たり的でない法律判断ができることを強調する文脈で、プラグマティックな法的アプローチをとるリベラル派のスティーブン・ブライヤーの手法が「柔軟すぎて拘束がきかない(mushy and unconstrained)」と批判的に述べている。また、ブライヤーやスータはリベラル派の顔として国民にアピールする力が弱いが、ケーガンなら期待できるとの趣旨も述べている。いくらオバマと親しいとはいっても、ここまで激しい調子の文章は意外である。

また、ケーガンの適格性を主張する中で、その説得能力を強調していることも注目される。これは前から多くの論者により言われてきたことだが、現在の最高裁の保守4人は非常に頑強なので、リベラル派としてはケネディをいかに引き込めるかという戦略的判断が必要になる。ソートマイヨールはこの能力を欠いているが、ケーガンはこれに長けているというのである。ケーガンは中道寄りリベラルといわれることが多く、リベラル派の学者の中には彼女が十分にリベラルでないことを批判する声が結構あった。一方トライブは、最高裁をリベラルな方向に向かわせるためには単にリベラルであるだけではだめで、戦略的でなければならないと考えていることが読み取れる。

あるいは、同僚とはいえトライブがここまで強く推薦していることから、ケーガンは中道ではなく非常にリベラルであるとも考えられる。彼女は政治的立場をあまり明らかにしてこなかったが、トライブは彼女の思想傾向を熟知しているはずである。ケーガンもオバマ同様かつてはトライブの教え子でありリサーチ・アシスタントであったので、付き合いはかなり長いからである。まだ明らかになっていないが、ケーガンは場合によっては非常にリベラルな意見を書く可能性がある。

ちなみに、この手紙の最後には、オバマに対して司法省の「法の支配」を扱う新しいポストを懇請する一文がある。トライブがこのポストを求めていたことはすでに広く知られていたようである。しかし、結局この職は与えられず、トライブは現在の法律サービスへのアクセスに関する部門を任せられることになった。NYTの4月7日付けの記事によると、この部門はトライブが求めていたものよりもはるかに権限も予算も小さいもののようであるが、トライブはこれを引き受けた。ただ、同記事によると、ホワイト・ハウス内に教え子も多いトライブは司法省内で非公式に大きな影響力を行使するのではないかといわれている。

2010年10月28日木曜日

葬儀場における死者の誹謗と表現の自由―Snyder v. Phelps事件をめぐる攻防―

今月から合衆国最高裁で、2010年開廷期(October Term 2010 )の口頭弁論が始まった。かなりおもしろい事件が多いのだが、筆者が専門にしている表現の自由の事件で、特にメディアに頻繁にとりあげられているものがある。Snyder v. Phelps という事件で、法的論点がかなり複雑な上に政治的にもセンシティブで、保守/リバタリアン/リベラルそれぞれの陣営が激しい論戦を繰り広げている。

この事件の事実関係は以下のとおりである。イラク戦争に参加して戦死したMatthew Snyder氏の葬儀がメリーランド州ウェストミンスターで行われた。その葬儀場付近で、同性愛に寛大な姿勢をとる米国を神が憎悪しているとの趣旨のメッセージを広めている宗教団体(Westboro Baptist Church)に属する者数名が、事前に計画された(教会はSnyderの葬儀を把握していた)ピケを行い、同性愛者、アメリカ、アメリカ軍を激しく侮辱する以下のような標識を掲げた。

「神は合衆国を憎んでいる("God Hates the USA")」、「アメリカの運は尽きた("America is doomed")」、「 ローマ法王は地獄行きだ("Pope in hell")」、「同性愛者だらけの軍隊 ("Fag troops.")」、「地獄に落ちろ( "You’re going to hell")」、「神はお前を憎んでいる( "God hates you")」。

その後、教会のサイトにこのピケに関連する叙事詩(epic)を掲載した。この詩の内容も強烈で、Matthew Snyderの名前を公然と掲げ、父のAlbertとその前妻が「Matthewが造物主に逆らうように教育をした」、「彼を悪魔のために育てた」、「神が嘘つきだと教えた」などと書かれてあった。

ただ、Matthewの父は、葬儀の現場ではピケに気付かず、後でテレビ番組でそれを知った。そして叙事詩については、後にグーグルの検索により発見した。なぜピケに気付かなかったかというと、実はこのピケが葬儀の現場のすぐ近くではなく、現場から1000フィート(およそ300メートル)ほど離れたところで行われていたからである。しかも、それは法令及び警察の指示に従ってなされたものであった。

その後、Matthewの父Albertが、教会と、その創設者であり長のFred Phelps、及びその他数名の構成員を被告として提訴し、5つの不法行為の成立を主張した。そのうち地裁で最終的に争われたのは、「私的領域への介入(intrusion upon seclusion)」、「意図的な感情的苦痛の賦課(intentional infliction of emotional distress)」、「民事共謀(civil conspiracy)」3つの不法行為だった。

先に見た事実関係からすると、確かにこのピケと叙事詩はひどく不快な内容であるが、法的責任を問いうるかは微妙だということになりそうである。また、仮に事実関係を争えないとしても、アメリカ憲法は修正1条において言論の自由を保障しており、この保障は他国に比べても非常に強固なことで有名だから、この点でも責任を問うことは困難にみえる。

ところが驚くべきことに、メリーランド州地方裁判所において、陪審は3つの不法行為の成立と巨額の損害賠償責任を認めた。アメリカの裁判所は巨額の損害賠償を課すことで有名だが、この事件では何と補償的損害賠償290万ドル、懲罰的損害賠償800万ドル、計1090万ドルという常軌を逸した額だった。後に地裁裁判官が懲罰的損害賠償を210万ドルに減額したため、計500万ドルとなったものの、それでも現在の為替レートで日本円に換算して約4億円である。

上訴を受けた第4巡回区連邦控訴裁判所は地裁判決を覆し、教会側の主張を認めた。控訴裁判所は、地裁の修正1条の法理の理解について疑問を提起した。地裁はこの事件を「私人 vs 私人」の間の紛争だから、「私人 vs 公職者(または公的人物)」の間の紛争ほど表現の自由に配慮が必要ないという前提に立っていた。アメリカの最高裁は、公職者や公的人物に対する批判や論評は強く保護するが、私人が私人に向けた同種の言論はそれほど手厚く保護しないという立場をとっている。地裁は後者の事例とみて、表現の自由に大きなウェイトを置かなかったのである。

これに対して、控訴裁判所は本件言論が私人に向けられていることに加えて、それが「事実」ではなく「意見」であることに注目した。すなわち言論が向けられる「人」ではなく、言論の「種類」に着目したのである。同裁判所は、最高裁が「事実」と「意見」を区別し、後者を保護してきたこと、特に「公的関心」に関わる意見を強く保障してきたこと、比喩的、誇張的な表現が保護に値するとしてきたことを挙げた。そして、本件で問題になった教会による標識と叙事詩は、「公的関心事」に関わる、誇張的レトリックを含む「意見」であり、修正1条により保障されるとしたのである。

その後、Snyder側が最高裁に上訴し、今月口頭弁論が行われた。判決の期日は不明だが、数ヵ月後に判決が下されることになっている。

控訴裁判所の判決は表現の自由に関する複雑な法理論的問題を含むが、その前に、先に述べたように本件ピケは葬儀現場とはかなり離れたところで行われていたのに、なぜその点を理由にSnyder側の訴えを斥けなかったのか。つまり、この事件では「憲法判断回避」ができたのである(アメリカでも日本でも、憲法判断は可能な限り回避しなければならないというルールがある)。実は、控訴裁判所に上訴する段階で、教会側が事実関係をはっきりと争わず、その点の主張を放棄したとみなされてしまったのである(控訴裁判所の反対意見は、当事者が放棄していたとしても憲法判断回避ルールに従うべきであるとし、本件事実によれば不法行為が成立しないと主張した)。これがこの事件をややこしくした一番の理由であり、この点を争っていれば最高裁まで上ってメディアにここまで注目されることもなかったはずである。

このようなことが起こった背景として、この事件の教会側の担当弁護士が教会の長Fredの娘、Margieだったという事情がある。彼女は最高裁の口頭弁論も担当したが、どうもピントがずれた論点整理をしていた(彼女はSnyderは私人ではないと繰り返し主張したのである。しかしどう考えても限られた時間でこの点を主張するのは稚拙である)ようで、そもそも法的資質に疑いがあるのかもしれない。

控訴裁判所の法律構成はどうだろうか。同裁判所の最高裁判例理解自体は全く正しいように思われるが、しかしこの事例は名誉毀損事件ではなく、特に「意図的な感情的苦痛の賦課」という類型の不法行為が成立するかどうかが1番の問題である。この不法行為はいわば侮辱の中のより強烈なものに法的責任を認めるものである。日本でもそうだが、事実を摘示しなくても侮辱は成立する。それなら、なぜ控訴裁判所は本件言明が事実か意見かという区別にこだわり、意見ならば法的責任が免除されるとしたのだろうか。意見であっても強烈な精神的苦痛を与えれば法的責任を問われうるのではないだろうか。

実はこの問題を複雑にしているのは他でもない最高裁である。最高裁は映画化もされた極めて重要な事件、Hustler Magazine v. Falwellにおいて、疑問の残る法律構成をしたのである。この事件は、ラリー・フリントという悪名高いポルノ雑誌出版者が有名な福音派の牧師ファルエルが母親と近親相姦を行ったとする侮辱的内容のパロディを雑誌に掲載したところ、「意図的な感情的苦痛の賦課」の不法行為により巨額の賠償請求がなされたという事件である。

最高裁は最終的に表現の自由を重視して損害賠償責任を否定したのだが、この理由付けにおいて、最高裁は本件が「意図的な感情的苦痛の賦課」という、侮辱に近い不法行為が問題になっているのに、名誉毀損の判例法理を用いたのだった(最高裁は過去の有名な名誉毀損判例に沿って、公的人物と公職者は、「現実の悪意」によってなされた虚偽の事実の言明を含むことを立証しない限り、本件のような出版物の公表を理由に、意図的な感情的苦痛の賦課の不法行為による損害回復は認められないとの趣旨を述べた)。結論は妥当だったかもしれないが、強烈な侮辱が与えられることにより発生する苦痛が問題なのに、事実を含むかどうかは問題なのか、疑問が残る内容だったのである。本来なら、公職者に向けられた言論や、公共的内容の言論であれば、事実を含むかどうかに関係なく、意図的な感情的苦痛の賦課の成立要件を厳格に絞る法理が追及されるべきだったのである。

したがって、Snyder事件の控訴裁判所判決は結論的には妥当であるが、疑わしい最高裁判例の理由付けに依拠したため、理由付け本体が名誉毀損判例に依拠するおかしな論理構成になってしまった。(*ちなみに、この事件が「葬儀場から~フィートの範囲内でのピケ等を禁止する」という法令が、修正1条の言論の自由の保障に違反するかという問題だったら答えは簡単だった。最高裁は、この種の規制は憲法に違反しないとしてきたからである。しかしこの事件はこのような表現内容に中立的な場所規制が問題になったのではなかった。)

この事件はその法的側面のみならず、政治的側面も興味深いものを含む。教会は頻繁にこの種のピケを行っており、地元のカンザス州トピーカのみならず、全米における最悪の厄介者として以前から有名だった(参照)。アメリカやアメリカ軍を侮辱する言論活動に保守派が怒り狂うのは当然であり、この教会は数々の脅迫や攻撃を受けてきたようである。そのため、この裁判でもSnyder側を強く支持する意見があるが、他方でやはりアメリカの伝統的な表現の自由を守ろうとする勢力は教会側を支持している。民主党を支持するリベラル派の中では、従来どおりこの裁判でも表現の自由を重視し、教会側を支持する論調(参照1参照2)が主流だと思われるが、共和党員の中には大きく分けて「保守」と「リバタリアン」が含まれ、この裁判では微妙に立場が分かれるかもしれない。

アメリカ最高裁では保守とリベラルのイデオロギー的対立が頻繁に見られるが、表現の自由の事件では(政治資金規制等の一部の問題を除いて)イデオロギー・ラインがはっきりしないことが多い。この事件でも、保守派の何人かの裁判官が教会側に強い嫌悪感を持っていることが、口頭弁論において伺えたようだが、リベラル派の裁判官にも同様の様子が見られたようであり、イデオロギー・ラインに沿った判決にはならないかもしれない。

アメリカの最高裁はネオナチ、KKK、ラリー・フリントなどの嫌われ者の表現活動すら表現の自由として強く保障するという立場をとってきたのであり(参照)、それこそがアメリカ表現の自由論のすごいところだが、この事件で最高裁がその伝統を守るのか、大変注目される。

2010年9月22日水曜日

ソニア・ソートマイヨールの見る連邦最高裁

日本の最高裁判事とは異なり、アメリカの連邦最高裁裁判官は特に夏休み中にロー・スクール等で講演を行い、自己の憲法観や司法哲学等を明らかにすることが多い。先日オハイオ州クリーブランドにあるケース・ウェスタン・リザーブ大学で、最高裁陪席裁判官の1人で、連邦最高裁史上初のヒスパニック系裁判官、ソニア・ソートマイヨール氏が講演を行った。映像は入手できないが、アメリカの主要法律ブログの1Volokh Conspiracyにおいて、J. Adler教授が簡潔に論点をまとめてくれている。結構重要な点が含まれているので、以下このブログ記事に依拠して、簡単な補足を交えながら紹介してみたい。 

講演は学生との1問1答形式で行われた。

1つ目の質問は、収用条項(政府が土地等を収用することを、正当な補償を条件に認める憲法修正5条)は、州その他の地方政府が環境保護目的で土地使用に制限を課す能力を制限するのか、というものだった。これは、収用の中でも土地収用などとは異なり、政府規制によって土地等の便益を減じるとき、どのような補償が求められるかという、いわゆる規制的収用の問題である。これに対して、ソートマイヨールはこの法領域は極めて複雑で、明確でない、よって事件ごとにアプローチしていくと答えた。この見解は、比較的明確なルール化を好むスカリア裁判官等の立場と対照的で、今後議論を呼びそうだ。

最近連邦最高裁の上訴受理件数が顕著に減っている点について質問が及んだ。これに対する答えは必ずしもはっきりしないが、まず明確な法的論点を提起しない事件を扱うことの問題を指摘した上で、事件受理数を拡大することは簡単でなく、立法的介入はとても危険だとしている。これは上訴受理に関する現場からのリアル・タイムの意見として重要だ。

ちなみに、ソートマイヨールは下級裁判所、特に事実審裁判所の日常業務に影響する問題について、上訴受理を促すのに相当な時間を使ったと述べた。ソートマイヨール自身が事実審の裁判官だった経験があり、これが彼女の事件に対するアプローチに影響していることを、Adler教授は示唆している。

オバマの医療保険制度改革の中の、個人に加入を強制する部分(特に合憲性が疑わしいとされ、現在違憲訴訟を提起されている部分)についても尋ねられた。これに対する回答は、必ずしも合憲性の可能性を排除せず、事件ごとに決定を下す、というものだった。この点に関して、ある州で有毒ガスが発生し、州当局が警察権限により州民を保護しようとしたとき、ガスマスクを配布する財政的余裕を欠いていたという場合、連邦が介入してマスクの購入を強制することもありうるという例を出したが、このような極端なケースには限界もあるだろうと述べた。どうも無理のある仮説事例である。このようなコメントに照らすと、オバマの医療制度改革法の中のこの部分は、リベラル派も合憲とできないかもしれない。

憲法解釈と司法による「事実上の立法」の間に線を引けるか、という伝統的な問いに対しては、「裁判官は、典型的に特定の文脈で、特定の問題に、一般的な言葉をあてはめるのに最善を尽くすのだ」と抽象論を述べ、直接的な回答は避けた。

最高裁における口頭弁論にテレビ・カメラを入れるべきか議論になっているが、この点に関する質問には、カメラは実際に人間の行動の仕方に影響するとし、やや消極的だった。

判決文の作成方法についても質問された。連邦最高裁裁判官は、ロー・スクールを出て間もない若いエリート法曹をロー・クラークとして雇用し、その補助の下で判決文を作成する。場合によっては意見のほとんどをクラークが書いているのではないかといわれることもあった。ソートマイヨールは、裁判官ごとにやり方は違うとしつつ、自身の方法を以下のように説明した。――①クラーク(ソートマイヨールについているのは現在4名)と事件について話し、口頭で自分の期待する意見の概略をそのクラークに提示する。②クラークが草案を作成し、ソートマイヨールが編集、修正を加える。場合によっては全面的に修正する。③その草案に関わらなかった別のクラークに批判を加えてもらう。――判決文執筆過程がこのように明らかにされることが最高裁研究にあたっては非常に有用であるが、ソートマイヨールは意見執筆をクラーク任せにしていないようである。

さらに、各裁判官の間で草案が回付されている間に、多数意見が相当程度書き換えられたことが、前回の開廷期には2回以上あったとしている。最高裁内での意見交換が活発に行われていることが推察され、興味深い。

最高裁が判決の中で外国法に依拠することが許容されるかは、かなり以前から議論になってきた。リベラルな判決を生み出す原因になることから、保守派はこれに強硬に反対してきた。これに対する答えも、以下のように注目すべきものになっている。

まず、外国法の採用を一切禁止するというのはばかげているとし、ある目的で外国法を参照することは許されるし、事件の性質上それが求められることもあるとする。実際に問題になるのは合衆国憲法の解釈の際に外国法を考慮することが適切かである。この点については、Graham v. Florida判決のケネディ裁判官に完全に同意するとした。ここでケネディは、①憲法の意味を明らかにする証拠として外国の判決を参照することと、②一定の原理の適用が特定の方法で発展すべきか、または発展しているかを確認するために外国の判決を参照することを区別し、②は憲法上問題ないとしたのである。

その他数点の質問があったようであるが、重要なところは以上のとおりである。

2010年7月5日月曜日

エリナ・ケーガンの承認審議

先日、オバマ大統領により、リベラル派のジョン・ポール・スティーブンス裁判官の後任として合衆国連邦最高裁裁判官に指名されたエリナ・ケーガンの上院での承認審議が今月1日に無事終了した。バード上院議員の死去と重なったため、変則的タイム・スケジュールとなったものの、審議自体に大きな混乱はなかった。おそらく問題なく承認されるといわれているが、共和党議員はほぼ全員反対にまわり、民主党の中でも厳しい質問をくり返したアーレン・スペクター議員は反対すると予測されている。


アメリカでは、この最高裁裁判官の上院での指名承認手続はかなり重要視されている。連邦最高裁がしばしば政治的に重要な判決を下す上、裁判官は定年制ではなく終身だから、この手続による上院のチェック機能が大きな役割を果たすのである。この承認手続は相当長時間にわたって行われ、なされる質問も非常に詳細にわたり、しかも厳しい。今回も、4日間、17時間以上にも及ぶ審議となった。


今回の承認審議はアメリカ国民の関心も薄く、どちらかというと地味なものだった。しかし、中間選挙が近いこともあり、上院議員にとっては有権者とのコミュニケーションの機会になるともいわれた。確かに、既に予備選で敗北しているスペクター議員などは例外だろうが、多くの上院議員はある種の選挙向けパフォーマンスとしてこの手続を利用したかもしれない。


上院での最高裁裁判官の指名承認は極めて重要であり、膨大な関係資料が収集されることが普通であるが、今回の審議では、学生時代の卒業論文や成績表などに加え、ケーガンが、連邦最高裁のロー・クラーク、クリントン政権下での政策顧問、ハーバード・ロースクールの長等を務めたときに残した膨大な量のメモや電子メールが収集され、メールについては75,000件を越えた。ケーガンは裁判官経験がないため、情報が不足するのではないかといわれたが、むしろ今回の審議はこれまででもっとも透明性の高いものであったとの指摘もあった。承認審議においては、メールやメモの内容を突っ込まれる場面が何度も見られた。


幸い、ケーガンはほとんど危ない発言を残していなかったが、今後、アメリカの法曹エリートたちは、あからさまにイデオロギーを顕にすることをますます控えるだろう。最近、オバマ大統領によって司法省の重要なポストに指名されながらも、共和党議員からの攻撃(議事妨害をするとの脅し)によって辞退を強いられたインディアナ大学ロー・スクールのドーン・ジョンセン教授は、辞退に至ったことは後悔しておらず、若手法律家に対して、自分の意見を遠慮なしにはっきり述べるべきだと主張した。しかし、最高裁に限らず政府のポストにつくためには上院の承認が必要であり、自己検閲が生じるのは間違いないだろう。


かつては承認審議は形式的なものとなることが多く、それほど厳しいものでもなかったが、80年代後半にはロバート・ボークの指名拒否などもあり、それ以降は大変なハードルになった。今回の質疑もかなり高度な域に達していて、被指名者のイデオロギーのみならず、法律知識、法的思考力、柔軟性などが総合的に問われた。これは以前から徐々に見られた変化であったが、今回、ケーガンがイデオロギー的である証拠が少なかったため、余計に高度な法的なスキルが問われることになった。承認審議ではあからさまにイデオロギー的にならないように、しかし分かりやすく自分の見解を説明しないといけない。ケーガンは、個別の判例や裁判官個人の評価を避けながら、自分の憲法観を説明していく方針をとった。実は、ケーガンは、過去の最高裁裁判官の承認審議が形骸化していることを批判する論文を過去に公表していたため、自分でハードルを上げることになってしまった。そのためか、前回のソートマイヨールのときと比べ、はるかに中身が濃かったという意見もある。


承認審議で明らかになったことは、ケーガンが「司法消極主義者」であり、個別の事件の解決を重視し、広範なルール設定を回避する「ミニマリスト」であるということだろう。特に、政治部門への敬譲をかなり強調していたため、最高裁による積極的な政治介入や、イデオロギー的判決を避ける可能性が高い。また、憲法を制定した者の意思、先例、伝統などを重視するとしつつ、個々の事件の処理の中で発展的に憲法を解釈することが強調されていた。



上院での承認審議において、保守派が特に気にする点は、裁判官が自分のリベラルな思想を積極的に判決において実現させようとしないかどうかである。そのため、しばしば上院議員は、被指名者が「司法積極主義者でないか」、「憲法制定者の意思を無視しないか」ということを気にするのである。ケーガンは、明白に消極主義の姿勢を表明し、憲法制定者の意思については、憲法条文、先例、歴史とともに無視できないものであるとの立場を表明した。これはバランスのとれた見解であり、保守派にとってもリベラル派にとっても受け入れられやすいものだろう。ただ、憲法解釈が時とともに発展していくとの趣旨を述べたため、共和党議員たちは、制定者の意思から乖離した、リベラルな解釈をするのではないかと警戒しているようだった。


ちなみに、ケーガンは、典型的リベラルで司法積極主義者、サーグッド・マーシャル裁判官(黒人初の裁判官でリベラルに英雄視されることが多い)のクラークを務めた経歴がある。そのため、共和党議員たちはマーシャルとの考えの違いをしつこく問い質した。一部のメディアは、結果としてケーガンの承認審議で(既に死去している)マーシャルが裁かれることになったと報じた。民主党議員のベンジャミン・カーディン氏が、マーシャルの業績を強調し、彼を擁護するという場面も見られた。


「司法消極主義」という点に関連して大きな問題になったのが、合衆国憲法に規定されている州際通商条項の解釈である。この規定は連邦議会に州をまたがる商業活動に関して規制を行うことを認めるものであり、解釈によっては連邦議会の権限はかなり広くなる。オバマ政権は、医療保険制度改革法、環境規制法、金融規制法など、連邦による規制をこの条項に基づいて広範に行っている。ケーガンはここでも司法消極主義を表明し、連邦議会の判断に介入しないとしたのだが、そうなるとこの種の広範な規制を司法によって覆そうという共和党の目論見とはズレてしまう。そのため、この点はかなりしつこく質問された。


もう一つ大きな論点となったのは、ケーガンが米軍に対して反感を抱いているのではないかという点である。ケーガンがハーバード・ロー・スクールの長であったとき、「同性愛者公言禁止原則」というゲイ・レズビアンに対して差別的政策をとる米軍リクルーターが就職課を利用してキャンパス内でリクルート活動をすることを拒んだという問題である。この点に関しては、同性愛者公言禁止原則には反対だと明言した上で、リクルーターがキャンパスに入ること自体はできたのだと強調したが、米軍を差別したことは間違いないとして執拗な攻撃を受けた。ただし、同性愛者公言禁止原則がまもなく議会によって廃止される見込みであることと、大学が差別禁止原則をとって、差別を行う学生団体を支援しないとすることを憲法に違反しないとする最高裁判決がつい最近出されたことは、ケーガンにとって追い風になったはずだ。


ケーガンが専門としている表現の自由についても多くの質問が寄せられた。とりわけ質問が集中したのは、選挙運動資金規制の問題である。法人の自由な資金拠出を認める判決が最近最高裁から出され、この領域では保守派が優勢である。富裕層や大企業の支持を受けることが多い共和党は、このような拠出を憲法で守られた権利だとし、民主党はそれに反対するという構図があるのである。共和党の上院議員たちは、この判決で示された、「選挙資金の拠出は政治的言論であり、高度な憲法的保障に値する」という命題を確認させようとしたが、ケーガンはこの点に関して明言を避けた。また、ケーガンが、過去の表現の自由に関する論文で、裁判所が立法者の動機への不信を最高裁がルール化してきたと主張していたが、この点に関連して、どこまで議会の動機を審査するのかという質問が出ていたのも興味深かった(この論文の趣旨からするとそのような質問は的外れだったが)。


その他の注目点は、ケーガンが最高裁における口頭弁論手続をテレビ中継することに賛成する意見をはっきりと述べたことである。この手続は一般公開されていて、観光客も見学できるし、質疑はすべて書面、音声で記録され、公開されているが、テレビ中継は依然として認められていないのである。なお、銃規制、中絶、対テロ戦争等に関する質問もだされたが、先例を尊重するということ以外は明確な回答をださなかった。


全体として、ケーガンの法的知識はかなりのものであったと評価されている。また、上院議員の質問をほとんどメモすることもなく、スラスラと応じ、頭の回転の速さも証明した。反対票を投じる議員の多くも、ケーガンの適格性については疑問を抱いていないのではないだろうか。


原油流出事故や景気回復の遅れなどで苦しむオバマ政権だが、最高裁裁判官の指名に関しては、これまでのところ成功しているといえそうである。既に職についているソートマイヨール裁判官は無難にリベラル陣営の一角を占めている。また、次に辞職が予想されているギンズバーグの後任指名承認は、中間選挙で民主党が議席を失うことがありえ、おそらく今回より苦労することになる可能性が高い。そのため、保守派に受け入れられやすい、ワシントンDCの連邦控訴裁判所裁判官、メリック・ガーランドなどを後の指名候補として置いておくことができたのは収穫だろう。また、ソートマイヨールもそれほど高齢ではないが、ケーガンはまだ50歳であり、今後30年以上在籍する可能性がある。この点もリベラル派にとっては非常に大きな意味を持つはずである。