2010年10月28日木曜日

葬儀場における死者の誹謗と表現の自由―Snyder v. Phelps事件をめぐる攻防―

今月から合衆国最高裁で、2010年開廷期(October Term 2010 )の口頭弁論が始まった。かなりおもしろい事件が多いのだが、筆者が専門にしている表現の自由の事件で、特にメディアに頻繁にとりあげられているものがある。Snyder v. Phelps という事件で、法的論点がかなり複雑な上に政治的にもセンシティブで、保守/リバタリアン/リベラルそれぞれの陣営が激しい論戦を繰り広げている。

この事件の事実関係は以下のとおりである。イラク戦争に参加して戦死したMatthew Snyder氏の葬儀がメリーランド州ウェストミンスターで行われた。その葬儀場付近で、同性愛に寛大な姿勢をとる米国を神が憎悪しているとの趣旨のメッセージを広めている宗教団体(Westboro Baptist Church)に属する者数名が、事前に計画された(教会はSnyderの葬儀を把握していた)ピケを行い、同性愛者、アメリカ、アメリカ軍を激しく侮辱する以下のような標識を掲げた。

「神は合衆国を憎んでいる("God Hates the USA")」、「アメリカの運は尽きた("America is doomed")」、「 ローマ法王は地獄行きだ("Pope in hell")」、「同性愛者だらけの軍隊 ("Fag troops.")」、「地獄に落ちろ( "You’re going to hell")」、「神はお前を憎んでいる( "God hates you")」。

その後、教会のサイトにこのピケに関連する叙事詩(epic)を掲載した。この詩の内容も強烈で、Matthew Snyderの名前を公然と掲げ、父のAlbertとその前妻が「Matthewが造物主に逆らうように教育をした」、「彼を悪魔のために育てた」、「神が嘘つきだと教えた」などと書かれてあった。

ただ、Matthewの父は、葬儀の現場ではピケに気付かず、後でテレビ番組でそれを知った。そして叙事詩については、後にグーグルの検索により発見した。なぜピケに気付かなかったかというと、実はこのピケが葬儀の現場のすぐ近くではなく、現場から1000フィート(およそ300メートル)ほど離れたところで行われていたからである。しかも、それは法令及び警察の指示に従ってなされたものであった。

その後、Matthewの父Albertが、教会と、その創設者であり長のFred Phelps、及びその他数名の構成員を被告として提訴し、5つの不法行為の成立を主張した。そのうち地裁で最終的に争われたのは、「私的領域への介入(intrusion upon seclusion)」、「意図的な感情的苦痛の賦課(intentional infliction of emotional distress)」、「民事共謀(civil conspiracy)」3つの不法行為だった。

先に見た事実関係からすると、確かにこのピケと叙事詩はひどく不快な内容であるが、法的責任を問いうるかは微妙だということになりそうである。また、仮に事実関係を争えないとしても、アメリカ憲法は修正1条において言論の自由を保障しており、この保障は他国に比べても非常に強固なことで有名だから、この点でも責任を問うことは困難にみえる。

ところが驚くべきことに、メリーランド州地方裁判所において、陪審は3つの不法行為の成立と巨額の損害賠償責任を認めた。アメリカの裁判所は巨額の損害賠償を課すことで有名だが、この事件では何と補償的損害賠償290万ドル、懲罰的損害賠償800万ドル、計1090万ドルという常軌を逸した額だった。後に地裁裁判官が懲罰的損害賠償を210万ドルに減額したため、計500万ドルとなったものの、それでも現在の為替レートで日本円に換算して約4億円である。

上訴を受けた第4巡回区連邦控訴裁判所は地裁判決を覆し、教会側の主張を認めた。控訴裁判所は、地裁の修正1条の法理の理解について疑問を提起した。地裁はこの事件を「私人 vs 私人」の間の紛争だから、「私人 vs 公職者(または公的人物)」の間の紛争ほど表現の自由に配慮が必要ないという前提に立っていた。アメリカの最高裁は、公職者や公的人物に対する批判や論評は強く保護するが、私人が私人に向けた同種の言論はそれほど手厚く保護しないという立場をとっている。地裁は後者の事例とみて、表現の自由に大きなウェイトを置かなかったのである。

これに対して、控訴裁判所は本件言論が私人に向けられていることに加えて、それが「事実」ではなく「意見」であることに注目した。すなわち言論が向けられる「人」ではなく、言論の「種類」に着目したのである。同裁判所は、最高裁が「事実」と「意見」を区別し、後者を保護してきたこと、特に「公的関心」に関わる意見を強く保障してきたこと、比喩的、誇張的な表現が保護に値するとしてきたことを挙げた。そして、本件で問題になった教会による標識と叙事詩は、「公的関心事」に関わる、誇張的レトリックを含む「意見」であり、修正1条により保障されるとしたのである。

その後、Snyder側が最高裁に上訴し、今月口頭弁論が行われた。判決の期日は不明だが、数ヵ月後に判決が下されることになっている。

控訴裁判所の判決は表現の自由に関する複雑な法理論的問題を含むが、その前に、先に述べたように本件ピケは葬儀現場とはかなり離れたところで行われていたのに、なぜその点を理由にSnyder側の訴えを斥けなかったのか。つまり、この事件では「憲法判断回避」ができたのである(アメリカでも日本でも、憲法判断は可能な限り回避しなければならないというルールがある)。実は、控訴裁判所に上訴する段階で、教会側が事実関係をはっきりと争わず、その点の主張を放棄したとみなされてしまったのである(控訴裁判所の反対意見は、当事者が放棄していたとしても憲法判断回避ルールに従うべきであるとし、本件事実によれば不法行為が成立しないと主張した)。これがこの事件をややこしくした一番の理由であり、この点を争っていれば最高裁まで上ってメディアにここまで注目されることもなかったはずである。

このようなことが起こった背景として、この事件の教会側の担当弁護士が教会の長Fredの娘、Margieだったという事情がある。彼女は最高裁の口頭弁論も担当したが、どうもピントがずれた論点整理をしていた(彼女はSnyderは私人ではないと繰り返し主張したのである。しかしどう考えても限られた時間でこの点を主張するのは稚拙である)ようで、そもそも法的資質に疑いがあるのかもしれない。

控訴裁判所の法律構成はどうだろうか。同裁判所の最高裁判例理解自体は全く正しいように思われるが、しかしこの事例は名誉毀損事件ではなく、特に「意図的な感情的苦痛の賦課」という類型の不法行為が成立するかどうかが1番の問題である。この不法行為はいわば侮辱の中のより強烈なものに法的責任を認めるものである。日本でもそうだが、事実を摘示しなくても侮辱は成立する。それなら、なぜ控訴裁判所は本件言明が事実か意見かという区別にこだわり、意見ならば法的責任が免除されるとしたのだろうか。意見であっても強烈な精神的苦痛を与えれば法的責任を問われうるのではないだろうか。

実はこの問題を複雑にしているのは他でもない最高裁である。最高裁は映画化もされた極めて重要な事件、Hustler Magazine v. Falwellにおいて、疑問の残る法律構成をしたのである。この事件は、ラリー・フリントという悪名高いポルノ雑誌出版者が有名な福音派の牧師ファルエルが母親と近親相姦を行ったとする侮辱的内容のパロディを雑誌に掲載したところ、「意図的な感情的苦痛の賦課」の不法行為により巨額の賠償請求がなされたという事件である。

最高裁は最終的に表現の自由を重視して損害賠償責任を否定したのだが、この理由付けにおいて、最高裁は本件が「意図的な感情的苦痛の賦課」という、侮辱に近い不法行為が問題になっているのに、名誉毀損の判例法理を用いたのだった(最高裁は過去の有名な名誉毀損判例に沿って、公的人物と公職者は、「現実の悪意」によってなされた虚偽の事実の言明を含むことを立証しない限り、本件のような出版物の公表を理由に、意図的な感情的苦痛の賦課の不法行為による損害回復は認められないとの趣旨を述べた)。結論は妥当だったかもしれないが、強烈な侮辱が与えられることにより発生する苦痛が問題なのに、事実を含むかどうかは問題なのか、疑問が残る内容だったのである。本来なら、公職者に向けられた言論や、公共的内容の言論であれば、事実を含むかどうかに関係なく、意図的な感情的苦痛の賦課の成立要件を厳格に絞る法理が追及されるべきだったのである。

したがって、Snyder事件の控訴裁判所判決は結論的には妥当であるが、疑わしい最高裁判例の理由付けに依拠したため、理由付け本体が名誉毀損判例に依拠するおかしな論理構成になってしまった。(*ちなみに、この事件が「葬儀場から~フィートの範囲内でのピケ等を禁止する」という法令が、修正1条の言論の自由の保障に違反するかという問題だったら答えは簡単だった。最高裁は、この種の規制は憲法に違反しないとしてきたからである。しかしこの事件はこのような表現内容に中立的な場所規制が問題になったのではなかった。)

この事件はその法的側面のみならず、政治的側面も興味深いものを含む。教会は頻繁にこの種のピケを行っており、地元のカンザス州トピーカのみならず、全米における最悪の厄介者として以前から有名だった(参照)。アメリカやアメリカ軍を侮辱する言論活動に保守派が怒り狂うのは当然であり、この教会は数々の脅迫や攻撃を受けてきたようである。そのため、この裁判でもSnyder側を強く支持する意見があるが、他方でやはりアメリカの伝統的な表現の自由を守ろうとする勢力は教会側を支持している。民主党を支持するリベラル派の中では、従来どおりこの裁判でも表現の自由を重視し、教会側を支持する論調(参照1参照2)が主流だと思われるが、共和党員の中には大きく分けて「保守」と「リバタリアン」が含まれ、この裁判では微妙に立場が分かれるかもしれない。

アメリカ最高裁では保守とリベラルのイデオロギー的対立が頻繁に見られるが、表現の自由の事件では(政治資金規制等の一部の問題を除いて)イデオロギー・ラインがはっきりしないことが多い。この事件でも、保守派の何人かの裁判官が教会側に強い嫌悪感を持っていることが、口頭弁論において伺えたようだが、リベラル派の裁判官にも同様の様子が見られたようであり、イデオロギー・ラインに沿った判決にはならないかもしれない。

アメリカの最高裁はネオナチ、KKK、ラリー・フリントなどの嫌われ者の表現活動すら表現の自由として強く保障するという立場をとってきたのであり(参照)、それこそがアメリカ表現の自由論のすごいところだが、この事件で最高裁がその伝統を守るのか、大変注目される。